蕪嶋神社 かぶしまじんじゃ 青森県八戸市大字鮫町字鮫56-2 1.4k 郷社 鎌倉の武将工藤祐経の子、 犬房丸が源頼朝公に仕えていたが、 罪を犯して流罪となり、 この地に移住し、 時が過ぎるにつれて、 都を追想して蕪嶋を見るにつれて、 郷里の江の島を思い出して、 これを擬して弁財天を祠り、 蕪嶋大明神本地弁財天と称し、 犬房丸 (祐経) の三男が、 この鮫浦に住み、 嶋脇の姓を名のり、 氏神として崇め奉る。 又、 室永三年 (一七〇六) この地を支配していた八戸南部藩の三代通信公に、 世継がなく、 蕪嶋弁天堂に男子誕生を祈願。 同年十月七日、 御堂を改築し、 新しい弁財天を勧請し、 豊山寺の住職が蕪嶋で開願式を行う。 其の祈願が成就され、 宝永六年に男子が授けられた由縁により、 子宝、 開運の社と崇め奉られ、 南部家の御紋の向鶴を社紋として授けられ、 藩公の厚い信仰を受けた。 今日では、 県南地方を始め全国的に開運の神として信仰を集めている。 (青森県神社本庁HPより引用)
岩木山神社 いわきやまじんじゃ 青森県弘前市百沢字寺沢27 1.3k 国幣小社 別表神社 諸国一宮 岩木山神社(いわきやまじんじゃ)は、青森県弘前市百沢の岩木山の南東麓にある神社。別称、「お岩木さま」「お山」「奥日光」。旧社格は国幣小社で、津軽国一宮とされる。
十和田神社 とわだじんじゃ 青森県十和田市奥瀬十和田湖畔休屋14−1 1k 青龍権現とも、熊野権現とも呼ばれていた十和田神社。その縁起には2通りの説があるとされています。 一つは大同2年(807年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂創建とされる説。東征のおり湖が荒れて渡れず、祠を建てて祈願しイカダを組んで渡ったという。 もう一つは、南祖坊(南蔵坊、南草坊ともいう)によるもの。熊野で修行した南祖坊が、鉄の草鞋と錫杖を神から授かり、「百足の草鞋が破れた所に住むべし」と夢のお告げを得て、諸国をめぐり、十和田湖畔で百足の草鞋が尽きたといいます。当時、十和田湖には八郎太郎というマタギが、湖の岩魚や水を喰らううちに八頭の大蛇となり、湖を支配していたそう。そこで、南祖坊は、その霊験により九頭の龍に変化し二十尋(約36m)の身体を、十曲(とわだ)に曲げ、八郎太郎を退治たという伝説が残っています。南祖坊を青龍権現として崇め祀った名残りが今もあり、境内の熊野神社には彼の履いていたという鉄の草鞋が奉納されています。
高山稲荷神社 たかやまいなりじんじゃ 青森県つがる市牛潟町鷲野沢147−1 992 高山稲荷神社は、五穀豊穣、海上安全、商売繁盛の神様として大変ご利益のある神社です。ここの信仰には農業・商業・工業・漁業・家内安全・病気平癒・道中守護・憑物落とし等多様多彩のものがあり、地元を始め遠方の人々の力もあって神社は支えられてきました。またここでしか見ることのできない幾重にも重なる「千本鳥居」はインパクト大で一見の価値があります。
櫛引八幡宮 くしひきはちまんぐう 青森県八戸市八幡字八幡丁3-2 606 郷社 櫛引八幡宮(くしひきはちまんぐう)は、青森県八戸市にある神社(八幡宮)である。旧社格は郷社。境内は「八幡山」と呼ばれ、樹齢100年以上の老杉が立ち並ぶ。本殿など5棟の社殿が重要文化財に指定され、国宝や重要文化財の甲冑なども境内国宝館において一般公開されている。
猿賀神社 さるがじんじゃ、さるかじんじゃ 青森県平川市猿賀字石林175 489 県社 別表神社 猿賀神社(さるがじんじゃ、さるかじんじゃ)は、青森県平川市(旧南津軽郡尾上町)猿賀に鎮座する神社である。旧社格は県社。戦後に神社本庁の別表神社となった。
廣田神社 ひろたじんじゃ 青森県青森市長島2丁目13−5 270 往古一条天皇の御代、長徳年間(996年)に左近衛中将より陸奥守に任ぜられた藤原実方朝臣(ふじわらさねかたあそん)が蝦夷鎮撫のため、外ヶ浜貝森村(現在の青森市)に「夷之社(えびすのやしろ)」を創建して陸奥国長久の平安を祈願したのに発祥します。
弘前八幡宮 ひろさきはちまんぐう 青森県弘前市八幡町1丁目1−1 252 県社 弘前八幡宮の草創は、平安初期 坂上田村麿が蝦夷征伐で苦戦を続けたとき八幡村(現岩木町八幡)小祠を建て、宇佐八幡宮を遥拝し武運を祈願したことに始まる。と伝えられている。 その後、二代藩主信牧公弘前城を築くに際し、城の鬼門(東北方)を守護するため、それまで百年余大浦城の守護神として崇敬されてきた八幡宮の御神体を、慶長十七年(1612)八幡村から弘前のこの地に奉遷した。この場所は信牧公が霊夢によって選定したといわれ、同時に堀越にあった最勝院をはじめとして五の別当寺院を参道の両側に建立した。 現在ある本殿と唐門は当時の建物であるが、さすがに藩主が天下泰平、藩中安穏、民心和楽の悲願をこめて造営したものだけに、東北地方では珍しい桃山様式を伝える代表的な神社建築といわれ、昭和十一年(1936)国宝の指定をうけ現行制度では重要文化財となっている。 この地に鎮座以来、弘前総鎮守の社として藩内の最も尊貴な神社の一つとなり、藩主代々の信仰も厚く、殊に天和二年(1682)から藩主在国の年(隔年)に行われた藩内最大の神輿渡御の祭礼では、全領内から百名をこえる神官の参集供奉のもとに、各町内から山車を繰り出すなど、まことに盛大なものであった。と記録されている。 明治の社寺改革により境内参道の別当寺院は移転し、八幡宮は明治六年(1873)弘前郷社に列せられ、同十三年縣社に昇格した。現在は宗教法人弘前八幡宮となっている。
長者山新羅神社 ちょうじゃさんしんらじんじゃ 青森県八戸市長者1-6-10 151 県社 長者山新羅神社(ちょうじゃさんしんらじんじゃ)は、青森県八戸市の長者山山上に鎮座する神社である。重要無形民俗文化財の八戸三社大祭や八戸のえんぶりで著名。社格は旧県社。八戸市内では櫛引八幡宮と並び篤く崇敬を集める神社である。
高照神社 たかてるじんじゃ 青森県弘前市大字高岡字神馬野87 138 県社 高照神社(たかてるじんじゃ)は、青森県弘前市に鎮座する神社である。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。平成18年(2006年)に境内の主要な建物が国の重要文化財に指定された。
田名部神社 たなぶじんじゃ 青森県むつ市田名部町1−1 134 田名部神社(たなぶじんじゃ)は、青森県むつ市田名部町にある神社。鎮座地は下北半島の中心部にあたり、下北半島の総鎮守である。創立年代は不詳だが、一番古い資料として、南北朝時代の康永4年(1341年)の鰐口が残っている。
青森縣護國神社 あおもりけんごこくじんじゃ 青森県弘前市下白銀町1-3 129 全国護国神社会 青森県護国神社(あおもりけんごこくじんじゃ)は、青森県弘前市下白銀町1-3、弘前公園内にある神社。護国神社の一つである。戦没した青森県出身者、2万9171柱の霊を神として祀る。
諏訪神社(青森) すわじんじゃ 青森県青森市栄町1丁目4 126 村社 諏訪神社は、第66代一条天皇の御代の寛弘年中(1004~1012、平安時代中期) 左近衛中将藤原實方朝臣の勧請により、もと造道村浪打の地に鎮座したのに始まる。 寛永8年(1631、江戸時代初め)青森開港に際し、藩命をうけた開港奉行森山彌七郎 が、開港の守護神として堤川中洲に遷座申し上げた。爾来津軽歴代藩主をはじめ民衆 の崇敬篤く、元禄年中まで青森五社の筆頭として崇められ、藩主たびたび参拝をしたと いう。7月27日は御魂祭と称して神輿を市中渡御していた。 明治5年3月、松森町、博労町、堤町、莨町、塩町、堤川橋から茶屋町まで及んだ大火 により結構なる社殿を始め、風致ある境内、鏡の井、逆手の桜などと称する古井名樹 も瞬間の火に烏有に帰した。その後現在の栄町の地に仮拝殿を建てて遷座し、明治 40年には総欅流造の本殿を再建、大正10年には総檜入母屋造の豪壮な幣拝殿を 再建した。 明治6年村社に列せられ、明治44年には神饌幣帛料供進社に指定され、次いで昭和 4年11月郷社に列せられている。大東亜戦争末期、昭和20年7月28日青森大空襲 により、本殿、幣殿、拝殿、神庫、宝物、什物などことごとくが戦火に帰した。 戦後の混沌とした世情の中で、昭和24年合浦公園にあった招魂堂(明治25年建立 1892)の払下げをうけ、まず拝殿を復興した。昭和47年12月には本殿を造営、 参集殿は昭和52年10月新築落成。平成16年には御鎮座1000年の佳節を迎え、 記念事業として7月脇殿を造営、9月幣殿を増築し、盛大に奉祝大祭が斎行された
龗神社 おがみじんじゃ 青森県八戸市内丸2丁目1-51 96 村社 龗神社(おがみじんじゃ)は、青森県八戸市内丸に鎮座する、八戸市内で最古と言われる神社である。その歴史は記録上判断できる限りでも約900年前の平安後期にまで遡り、創建の理由などを類推するとさらに遡ると考えられている。正しくは法霊山龗神社(ほうりょうさんおがみじんじゃ)といい、法霊神社、法霊山という通称でも呼ばれている。江戸になり盛岡に南部藩が誕生すると、その領内にある八戸城の館神とされていたが、江戸時代初期の1665(寛文5)年に八戸藩が成立すると藩神の地位を得て八戸藩総鎮守となり、大名家南部氏の祈願所となった。それに伴い規模拡張とともに八戸城内二の丸に遷座された事もあり、当時は一般領民は参拝が許されない神社だった。現在では、八戸市中心部にある神社という場所柄や総鎮守神という特性などから、地元の老舗企業や中央大手企業の支社支店などの祭祀は龗神社の奉仕となる事が多く、地元経済界の一部では龗神社による祭祀執行が名誉な事と考える風潮があるようである。この影響もあり龗神社の崇敬者はとにかく熱狂的な人々が多く、法霊山は八戸にとって特別な神社であり、格段に厚く祀らなければならないとする主張がいまだに根強く存在している。また、八戸三社大祭(重要無形民俗文化財)発祥の神社であり、現在も神社が所蔵している御神輿が長者山に渡る事が三社大祭の本来の由緒である。この神社の「おがみ」の漢字は珍しい文字で、雨かんむりの下に「口」を横並びに3つ、その下に「龍」を書く。一説によると、源義経の正室と言われる京の久我大臣(こがのおとど)の娘が自害した場所と伝わり、その御霊が祀られているという伝説が伝えられている場所でもある。
三戸大神宮 さんのへだいじんぐう 青森県三戸郡三戸町同心町諏訪内43 96 「神明さま」として親しまれている三戸大神宮は、その昔は神明社、神明堂とよばれ、箸木山の八畳屋敷に鎮座していたといいます。箸木山の社殿は万治元年(1658)に町内有志によって建立されました。祭神は天照大神です。
弘前天満宮 てんまんぐう 青森県弘前市西茂森1丁目1-34 85 天満宮(てんまんぐう)は青森県弘前市西茂森、西方岩木山に相対し眼下に先達ヶ渕を見下ろす景勝地に鎮座する神社(天満宮)。地名を冠して弘前天満宮(ひろさきてんまんぐう)とも称される。旧村社。
小田八幡宮 こだはちまんぐう 青森県八戸市小田1丁目2-1 78 小田八幡宮(こだはちまんぐう)は青森県八戸市小田に鎮座する神社である。法人名は八幡宮(はちまんぐう)。旧社格は村社。源義経北行伝説がある。
久須志神社 くすしじんじゃ 青森県青森市久須志2丁目2−2 59 久須志神社の草創は延宝5年(1677)で、以前は薬師堂といわれて、古川村民の産神として崇敬されておりました。 明治初年に神仏混淆廃止によって薬師堂は仏であるというので、久須志神社と改められました。
御前神社(八戸市) みさきじんじゃ 青森県八戸市小中野8丁目1−19 43 社伝によると住吉三神(すみよしさんしん)の教えを受けた息長帯姫命(神功皇后)(じんぐうこうごう)が従者の武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)を陸奥に下向させます。そして、新井田川の川口小浜に安着した折り、住吉三神の神霊を受け小祠(ほこら)を造営したことが、当社の誕生であったと伝えられています。 宿禰は住吉三神を三崎御前と仰ぎ、息長帯姫命(神功皇后)をも合わせてお祠りすることになります。 その後、坂上田村麿が、当社に武運長久を願って参籠したという言い伝えも残っています。 古くは雷林の地名で呼ばれていた湊館鼻の地から、平成七年の秋、小中野・江陽地区の産土神であることと、櫛引八幡宮の「お浜入り」にもゆかりのある現在地に当社は遷座造営(せんざぞうえい)されました。
熊野奥照神社 くまのおくてるじんじゃ 青森県弘前市田町4丁目1 38 当神社は、崇神天皇67年の創立にして斉明天皇4年、阿部比羅夫がこれを崇敬し、その副使物部安麿が東夷を征せんとして津軽に来て奇瑞を得て小田山の下に社を建て熊野三所大権現を崇敬したが桓武天皇延暦7年比羅夫の子孫比羅賀洲王が神輿を奉じて奥尾崎(今の北津軽郡小泊附近)より扇野庄(今の弘前)に遷し奉ったのが鎮座した始めと伝えられている。延暦21年桓武天皇神殿を新に造立して高岡神社と称し、同24年陸奥国高岡熊野神社と称した。当神社本殿は、慶長18年第二代藩主津軽信牧公の再建にかかるものであるが「天正十六年六月為信殿修覆、同十七年五月下乗下馬修補」とあるのを以って、旧藩津軽氏が崇敬した始めと見られる。その後明治13年阿部比羅夫、坂上田村麿両将軍の神霊も合祀して熊野奥照神社と改称し今日に至っている。
中野神社 なかのじんじゃ 青森県黒石市南中野不動舘26 35 延暦十九年(800)田村麿将軍が東夷征伐の折、当国の守護神として日本武尊を当社に勧請。御神体の不動尊は唐僧、円智上人の作で、中国天台宗の開祖、智嶺の附弟、人皇三十三代、推古帝(604)十三年に来朝し聖徳太子に勝曼経、法華経を奉り、同十八年太子の命に依り当国に来たり。
海堂神社 かいどうじんじゃ 青森県北津軽郡板柳町大字板柳字土井21 21 豊臣秀吉の朝鮮征伐の際に軍を派遣した折り、津軽為信が海上の安全と国土の繁栄を祈願する神社として建てたのがこの海童神社です。「宝量宮」と名付けられた海童神社境内には、相撲道の哲人・桜錦の胸像や、他にも数基の記念碑などが奉納されています。
高増神社 たかますじんじゃ 青森県北津軽郡板柳町大俵字和田424 19 安田健之助翁が、りんご生産に専念していた昭和三年の春頃より、不思議な事が起り始めた。庭の立木に一尺二寸、高さ三尺位のお堂が紅白の縄で結ばれていた。誰の仕業か話合っていると、夜ともなれば大男が姿を現し、床に長さ一尺八寸、巾が九寸位の大きな足跡を見せた。度重なる出来事に夜も眠れぬ日が続き、畑には驚く程大きなヘビが姿を見せたり、家の壁には文字が書かれ、それは十二山の神、大山祇大神と読めた。その後「タユ (神主) タノム」と書かれ、お堂を床の間に祀る事としたが、いつの間にか元の立木の場所に戻っていた。それらなばと、その所に社殿を新築する事に決め先達や信者の協力を得、昭和七年完成を見る事が出来た。そして昭和二十八年三月十日に宗教法人「高増神社」として登記し、本殿、拝殿、社務所、参集殿を建設し、境内整備を行い、平成九年には、薬師堂新築、十一年には、祝詞殿、拝殿の改築工事も終え現在に至る。
山王坊日吉神社 さんのうぼうひえじんじゃ 青森県五所川原市相内 15 滋賀県大津市の日吉神社の末社として建立されたもので、最上部にある笠木のある二重鳥居は全国的にも珍しいものです。また、国道沿いの大鳥居は安東文化を偲ぶシンボル塔として近年建立されたもので、地元のひばを使用しています。
八幡宮(五所川原市元町) はちまんぐう 青森県五所川原市字元町30番地 6 村社 八幡宮(はちまんぐう)は青森県五所川原市にあるする神社。市内には同名の神社が多数存在するため、地名を冠して元町八幡宮とも呼ばれる。旧社格は村社。祭神は譽田別尊。伝説によれば、「五所川原」という地名の発祥と当社の創建には密接な関係があるという。その昔、一説には明暦か万治年間に起きた春の大水によって、現在の中津軽郡相馬村五所の五所神社から祠がこの地の川原に流れ着いた。このとき住民たちは祠を五所からの使者に返還したものの、その年の秋に再度祠が流れ着き、翌年の春に3度目が起きるに至って、「これも神の思し召し」と祠を当地に安置することを決め、五所の人々も納得した。五所川原市新宮は、祠が最初に安置されたことに由来する名称である。その後、やはり実際に漂着した場所がふさわしいということで遷座することになった。
法量神社 ほうりょうじんじゃ 青森県十和田市法量字山ノ下25 1 村社 法量神社(ほうりょうじんじゃ)は青森県十和田市法量に鎮座する神社。鎮座地は小高い丘の上で法量集落を見渡し、眼下には田園等のどかな風景が広がる。
胸肩神社 むなかたじんじゃ 青森県弘前市品川町89 坂上田村麿将軍が信仰していた辯才天(べんざいてん)を大野に勧請し、琵琶を奉納したという伝えもある、長い歴史を持つ神社。寛文年間(1661-72)に品川の地に移り土手一座弁財天神社、 又は弁天宮と称され、 士族、 町民から崇敬されたという。弘前駅から徒歩で行けることもあり、今もなお市民から「弁天様」の愛称で親しまれ、辰巳生まれの守護神としても信仰を集めている。
大祐神社 だいすけじんじゃ 青森県八戸市湊町下条12 大祐神社は嘉禎2年(1226)、大祐大明神として、弁財天とともに湊の氏神としてまつられ、明治4年(1871)に「大祐神社」と名付けられたと伝えられています。毎年7月には、風を鎮め、大漁と五穀豊穣を願う風鎮祭が行われ、舞などの奉納が行われます。ほかにも、結婚式や七五三、厄払いなどで、地域の人びとと深く関わってきた湊町のシンボル的存在です。
黒石神社 くろいしじんじゃ 青森県黒石市市ノ町20 県社 津軽十郎左衛門信英公は、宗藩弘前二代藩主信枚公の次男で藩祖為信公の孫に当たり、元和六年(一六二〇)十月五日江戸に生れる。初め幕府の小姓組番士として出仕し、のち江戸西丸書院番、駿府在番などを勤めた。明暦二年(一六五六)弘前藩四代藩主信政公より黒石、平内、上州勢多郡等計五千石を分知され同時に陣屋を建て町割りを行い黒石藩の基を築いた。信英公は、幼少より文武に励み、特に当代第一流の軍学者山鹿素行の高弟として兵学を、その他武術、文学を各師に学び、他に遊戯諸芸をも学ばれ、その人となり温良慈仁にして良政をしかれ、その学識と執政は諸大名の間にも高く評価された。明治維新後、旧士族は藩祖信英公の御遺徳を追感欽慕し明治十二年神祭願いを県令に提出、官許を得て郷社に列せられ、更に明治十五年県社に昇格したが、戦後社格は廃止された。氏子はなく崇敬会を以て神社維持運営し今日に至る。
鎌倉の武将工藤祐経の子、 犬房丸が源頼朝公に仕えていたが、 罪を犯して流罪となり、 この地に移住し、 時が過ぎるにつれて、 都を追想して蕪嶋を見るにつれて、 郷里の江の島を思い出して、 これを擬して弁財天を祠り、 蕪嶋大明神本地弁財天と称し、 犬房丸 (祐経) の三男が、 この鮫浦に住み、 嶋脇の姓を名のり、 氏神として崇め奉る。 又、 室永三年 (一七〇六) この地を支配していた八戸南部藩の三代通信公に、 世継がなく、 蕪嶋弁天堂に男子誕生を祈願。 同年十月七日、 御堂を改築し、 新しい弁財天を勧請し、 豊山寺の住職が蕪嶋で開願式を行う。 其の祈願が成就され、 宝永六年に男子が授けられた由縁により、 子宝、 開運の社と崇め奉られ、 南部家の御紋の向鶴を社紋として授けられ、 藩公の厚い信仰を受けた。 今日では、 県南地方を始め全国的に開運の神として信仰を集めている。 (青森県神社本庁HPより引用)